摂受と折伏 アサーティブな対話

ツイッターでCさんと対話するうち、摂受、折伏について深く考えこみ、考えを整理してみました。

立正安国論は、大聖人が客人を折伏する対話です。災害、大地震、異常気象で死者多数。大聖人はこの悲惨の原因は邪宗(誤れる思想)によると言われ、怒った客人は席を立ち帰ろうとします。大聖人は笑みて押しとどめ、正確な仏教知識と人格力で最後は客人を味方に変えてしまいます。真実を語るのか折伏、ただしその話法技術はアサーティブです。

アサーティブとは自分も相手も尊重するコミュニケーション
一人一人が自分を大切と思えること
自分の権利も相手の権利も尊重できること
多様な価値観の人と対等の関係を築けること

アサーティブとは、誠実・率直・対等な立場で、
自分の気持や意見をわかりやすく伝えること

 

 この折伏については意味があいまいで人によって違う意味で捉えているかもしれません。私が昔、習った意味は、強く、真実を言うことで、仏法を聞く耳持たなかった人の心にざわめきを起こさせ、振り向かせる。動執生疑と言います。相手の誤った思想への執着をゆり動かし、疑いを生じさせる、の意味です。

摂受は相手の間違いをいったん受け入れ、少しずつ正しい方へ導くやり方だったと思います。素直に聞く相手にはこれでいいでしょう。

法華経釈尊と弟子たちの対話ですが、この正法の時代は人々は釈尊の教えをみずから求め、素直に聞くので破折する必要も何もないわけです。ですから摂受で。末法は聞く耳持たない衆生なのであえてきつく言って、何だ?と振り向かせるということかと。

 

ただ、昭和の頃からの会員はとくに、折伏の意味を、正義を強く主張すること、「勇気」を「相手の理解力や感情を考慮せず」と、とらえる傾向があります。

私もそういう時期がありました。理解者をふやすどころか、思い込みの激しい、視野の狭い人間、と周囲から思われていたと思います。

また、一昨年からの政治状況、安保法制をめぐり、公明支持に反対を表明する会員がいます。私も反対しています。ただ、いろんな理解レベルの人が混じる大勢いる場で、強い批判をするというのは、アサーティブではなく、かえって対立を深め、組織を良くしたいという願いの実現が遠のくことがあります。

 

学会員もただ大白を読み合わせるだけのつまらない御書講義の時間をやめて、たとえばアサーティブな対話法について学ぶとか、会員のスキルアップにつながるようなことをしてほしいと思うのです。