必ず願いはかなう! をどう考えるか

VODを見ると元気になる。グループや座談会で毎回見ている。

芸術部の方の体験談。入信動機として、折伏されたとき、「必ず願いはかなうよ!」との言葉にひかれたという方が多い。

でも、現実にはかなわないこともある。私は、祈りが足りないから?とか、活動内容が不足していた?とか思って納得しようとしていた。

2017年1月号の大白で、木根尚登さんの誌上セミナーで納得。

 

僕は、音楽のプロになるという夢はかないましたが、かなわなかった夢もあります。「願いはかなう」という言葉は美しいですが、美しいだけでは、うそになるとも思います。現実にはかなわない夢も多いかも知れません。

しかし、夢がかなうことが幸せで、夢破れることが不幸だとも思いません。砕け散った夢のかけらを拾い集めれば、必ず次の道が見えてきます。負けないことを目指せば、必ず幸せな人生を歩むことができるのです。

VODでは木根さんは、ウサギとカメの話を引用されていた。

ウサギとカメといえば、「相手が誰でも全力でやらなきゃいけない。」そういう教訓を得る話だと思っていた。でも、池田先生はおっしゃった。それはウサギさんから聞いた話でしょ。勝ったのはカメさん。勝利者インタビューはカメさんに。
「ぼくはゴールしか見ていませんでした。」
これは夢をかなえる、病気とか悩みを克服する、 自分がこうしたいと思ったところに辿りつく、最高の哲学。究極の教え。
僕らどうしても人を見てしまう、人を見て判断するからたどりつかない。池田先生いわく、負けないことが大事。
大白に戻る。
僕も100回オーディションを受けました。落ちることが負けだとしたら、僕の人生は圧倒的に負け越し。しかし、自分の貫きたい信念があるなら、たとえ何度失敗しても挑戦するしかないんです。
 

 

 

Cさんの問いへの返信(幹部・議員は悪いのか、先生は悪くないのか)

Cさん『池田先生と幹部・執行部は違うという意見が私にはよく分かりません。同窓生に本部職員や公明党議員がいますが、純粋に池田先生を求め、師匠のお役に立ちたい、師匠を全力でお護りすると固い決心で進路を決めた人ばかりです。』

 

⇒ネットで「元職員三名のブログ」というものが出ています。彼らも純粋な気持ちでがんばっていたのでしょうが、いつしか特権意識が芽生え、会員を見下すようになったと反省する場面がでてきます。6.4の報告の回(6/9のブログ)に出ています。もっと前に詳しくでていたのですが、探すことができません。いつしか自分たちは一般会員より上だと錯覚し傲慢な態度になっていたのを、学生部の同志が涙を流し強くいさめてくれたことで、目が覚めた、とありました。

このブログは大変文章が長くてところどころしか読んでいません。一見正義をつらぬくゆえに迫害されたのかと見えますが、この文章のしつこさに粘着質を感じ、もしかして彼らのこの態度から推察するに、大人になりきれない未熟さがあったのかも、と思えます。ツイッターで私のフォロー関係でも評価は割れています。青蓮さんのブログに彼らについての厳しめの論評が載っており、興味深く読みました。

あと、「宿坊の掲示板 54年問題総括の場」という掲示板はご覧になったことがありますか。こちらも膨大な内容で、私も一部しか読んでいませんので、要点をお伝えすることができません。「師弟不二ARCHIVE」サイトのほうにある程度まとめられているようです。

はじめは純真にがんばろうとしていた幹部が巨額のお金を扱ったり、利権を手にしておかしくなっていったことが様々な人からの情報であきらかにされています。

どうしたら、このような腐敗を防げるのか、学会も公明党も信心していても結局 権力やお金の力によっておかしくなってしまうのか、私はこういう事柄をツイッターで皆さんと意見交換しています。もう創価に見切りをつけて遠ざかる(非活)人、やめずに組織を変えようと戦い続けるという人、様々です。私は末端役職を担いながら、かろうじて活動しています。選挙だけは、支援活動しない、と昨年秋に幹部に言いました。私の場合、無意識にアサーティブな言動をしているのか、あまりとがめられずにすみました。身近な人や担当幹部には、現在のような盲目的な公明支援活動は問題だとたくさん話をしましたが、相手の考えを変えることはできませんでした。今後どうすればよいのかいまだ模索中です。すっきりしたお答えができず申し訳ないです。

 

Cさん『池田先生は絶対悪くない、幹部が悪いと言う人がいますが、池田先生を神格化し、幹部に責任を押しつけているようにも思えます。それぞれに池田先生像が勝手に独り歩きしている印象です。

本当に幹部・執行部は悪いのでしょうか?竹入・矢野・福本・原島らはそれほどまでに極悪なのでしょうか?側近幹部が脱会しているのは1人2人ではありませんし、異常だと感じます。幹部を悪とするならば、原因を探らないと組織の再生は難しいと思います。』

⇒先生像が勝手に独り歩きしている、は私も同感です。神格化され、先生ご自身とまどっておられるかもしれません。

先生は悪くないのかについては、私も学会の裏の裏まで知っているわけではありませんので、こうだと断言はできませんが、一人の人間が創価学会を巨大教団に育て上げ、世界中に仏法を流布し、幼稚園から大学まで作り、美術館、民音、新聞社、出版社、政党まで作ったことは単純に考えてものすごいことです。NHKの「あさがきた」で、主人公が大学を創立しますが、大学一つ作るだけでもその苦労は大変なものでした。(あさは女性だから大変だったというのがあるとしても)。

先生に関して悪い話はあるのかもしれませんが、それによってこの功績が減じるものではないと思います。

 

摂受と折伏 アサーティブな対話

ツイッターでCさんと対話するうち、摂受、折伏について深く考えこみ、考えを整理してみました。

立正安国論は、大聖人が客人を折伏する対話です。災害、大地震、異常気象で死者多数。大聖人はこの悲惨の原因は邪宗(誤れる思想)によると言われ、怒った客人は席を立ち帰ろうとします。大聖人は笑みて押しとどめ、正確な仏教知識と人格力で最後は客人を味方に変えてしまいます。真実を語るのか折伏、ただしその話法技術はアサーティブです。

アサーティブとは自分も相手も尊重するコミュニケーション
一人一人が自分を大切と思えること
自分の権利も相手の権利も尊重できること
多様な価値観の人と対等の関係を築けること

アサーティブとは、誠実・率直・対等な立場で、
自分の気持や意見をわかりやすく伝えること

 

 この折伏については意味があいまいで人によって違う意味で捉えているかもしれません。私が昔、習った意味は、強く、真実を言うことで、仏法を聞く耳持たなかった人の心にざわめきを起こさせ、振り向かせる。動執生疑と言います。相手の誤った思想への執着をゆり動かし、疑いを生じさせる、の意味です。

摂受は相手の間違いをいったん受け入れ、少しずつ正しい方へ導くやり方だったと思います。素直に聞く相手にはこれでいいでしょう。

法華経釈尊と弟子たちの対話ですが、この正法の時代は人々は釈尊の教えをみずから求め、素直に聞くので破折する必要も何もないわけです。ですから摂受で。末法は聞く耳持たない衆生なのであえてきつく言って、何だ?と振り向かせるということかと。

 

ただ、昭和の頃からの会員はとくに、折伏の意味を、正義を強く主張すること、「勇気」を「相手の理解力や感情を考慮せず」と、とらえる傾向があります。

私もそういう時期がありました。理解者をふやすどころか、思い込みの激しい、視野の狭い人間、と周囲から思われていたと思います。

また、一昨年からの政治状況、安保法制をめぐり、公明支持に反対を表明する会員がいます。私も反対しています。ただ、いろんな理解レベルの人が混じる大勢いる場で、強い批判をするというのは、アサーティブではなく、かえって対立を深め、組織を良くしたいという願いの実現が遠のくことがあります。

 

学会員もただ大白を読み合わせるだけのつまらない御書講義の時間をやめて、たとえばアサーティブな対話法について学ぶとか、会員のスキルアップにつながるようなことをしてほしいと思うのです。